ソ連宇宙開発備忘録

  チェロメイ・プロトン・アルマース
                            大田 憲司

 ソ連の宇宙開発の発展に大きな貢献をしたにもかかわらずその業績につい
て余り多くのことが知られていない功労者の一人がV.N.チェロメイ(1914
〜1984)であろう。
 有翼ロケット、弾道ロケット(ミサイル)などのロケット兵器の開発のほ
か、チェロメイは1960年代以降、強力なプロトンロケットとアルマース
宇宙ステーションを開発した。その成果は現在のロシアの宇宙開発において
なお大きな役割を果たしている。
 ロシア国防省機関紙“赤い星”の1996年9月14日付にチェロメイの
下で開発・テスト作業に従事したA.S.シェホヤン氏の回想記事が掲載され
たので、その概要を紹介したい。(シェホヤン氏は現在、フルニチェフ記念
国立宇宙科学生産センターのスタッフ。このセンターがプロトンロケットと
宇宙ステーション機器の量産工場であることはよく知られている)。

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<バイコヌール>
 1960年代のはじめ私(シェホヤン)はフルニチェフ工場に勤務してい
た。ある時思いがけなくチェロメイに呼ばれて、彼の設計局のテスト技師長
代理になってほしいと頼まれた。フルニチェフ工場に籍を残したまま、チェ
ロメイ設計局で働くことになった。フルニチェフ工場では飛行テスト部の部
長代理としてチェロメイの設計したУР(ウーエル)200ロケット用の打
上げ装置2基の製作にあたっていたので、その時にチェロメイが私に目をつ
けたのだろう。
 当時チェロメイ設計局は月探査用宇宙船とそれを打上げるためのペイロー
ド130トンの強力なロケット開発に取り組んでいた。
 1962年、私ははじめてバイコヌールへ行った。今から30年以上も前
のバイコヌールは荒涼たるステップ(乾燥平原)で、ガガーリンが宇宙へ飛
び立った発射台とヤンゲリ設計のミサイル(当時は“製品”と呼ばれていた
)試射台のほか何もなかった。バイコヌールのスタッフは車輌を住居として
4年間働いたのである。射点建設には多大な労力を要した。最初に露天型、
その後屋根のついた閉鎖型の施設が建設されていった。やがてプロトンロケ
ット用の射点もできあがった。この射点では当初チェロメイ設計のミサイル
の打上げテストがおこなわれ、そのあとでプロトンロケットが打上げられる
ようになった。

<プロトンロケット、人工衛星プロトン>
 当時アメリカとの核兵器競争が進められたことからチェロメイ設計局も有
翼ロケットをはじめとする戦略兵器の開発に取り組んだ。こうして国防企業
としてチェロメイ設計局は大きな役割を果たしたが、何といってもチェロメ
イの最大の功績はプロトンロケットの開発である。
 1965年7月、プロトンロケットは重さ12.2トンの科学研究衛星プ
ロトン1号を打上げた。1968年11月には第3段をつけて17トンのプ
ロトン4号を打上げた。宇宙時代がスタートしてようやく8年という時に1
0トン以上の重量物が宇宙軌道に運ばれたということは世界を驚かせるでき
ごとであった。プロトンロケットの製作とテストには5年の歳月を要した。

<宇宙ステーションの開発>
 1960年代の終りから1970年代のはじめにかけて、米ソの核戦力が
ほぼ均衡したことからチェロメイ設計局は新しいテーマとして軌道ステーシ
ョンの開発に着手した。この時期はS.P.コロレフの死去、月ロケットH1
(エヌ・アジン)の失敗とそれによる月計画の挫折といった具合にソ連の宇
宙開発部門では試練が続いた。
 1968年1月、チェロメイは軌道ステーション・アルマース(ダイヤ)
の概念設計図をバイコヌールへ送付した。これは、ロケットと宇宙船を組合
わせたすばらしい案だった。その構成は、有人ステーション(居住区画)、
貨物回収用帰還カプセル、クルー帰還船、貨物補給船となっていた。
 1970年、この設計案は“メタル”になり2基の宇宙ステーションは中
身をつめるのを待つばかりとなった。ところがこのステーションのボディと
図面書類をコロレフの没後を引受けたミーシン設計局へ引渡しせよという上
部機関(ソ連一般機械工業省、略称ミンオプシマシ)の指令が出された。
 チェロメイ設計局がつくった胴体に宇宙船ソユーズの機器装置がとりつけ
られ、サリュートという名称の宇宙ステーションができあがった。1971
年4月19日、サリュート1号がプロトンロケットにより打上げられ、宇宙
ステーション時代がスタートした。

<アルマース、コスモス>
 チェロメイ設計局はそれでも宇宙システム・アルマースに5年間取組み、
ようやく1973年、アルマースステーションとして打上げにこぎつけた。
しかし1973年4月3日打上げられたステーションはサリュート2号と命
名された。1974年6月さらにもう1基のアルマースステーションが打上
げられるが、これもサリュート3号と呼ばれることになる。
 アルマースステーションの構成要素の一つとしてチェロメイが考案した貨
物補給船は宇宙タグボートとしても設計されており、有人宇宙飛行にとって
大きな意味を持っていたが、せっかく製作された数基の貨物補給船はバイコ
ヌールの組立工場に長い間放置されていた。
 この補給船こそ現在ミールにドッキングしているモジュールの原型であっ
た。
 1981年この補給船の一つがコスモス1267号として打上げられ、サ
リュート6号にドッキングする。
 アルマース計画にブレーキをかけ中止させたのは当時ソ連共産党の中央委
員会政治局員で国防相となったD.F.ウスチノフであった。計画が中止にな
った後、チェロメイ設計の重量型衛星はバイコヌールに7年間放置されてい
たが、1987年7月25日、コスモス1870号として打上げられた。こ
の衛星には全天候型で夜間も稼働する地表観察レーダーがとりつけてあった。
しかもその地表映像の解像度は高かった。
 チェロメイ設計長は1984年12月2日他界したため、この高解像度の
宇宙からの送信画像を見ることはできなかった。

<月計画>
 コロレフ設計長が中心になって進めた月計画のH1(エヌ・アジン)ロケ
ットがうまくいかなかった時、チェロメイはУР(ウーエル)700ロケッ
トを月計画用に提案した。
 1965年に彼が設計したこの大型ロケットにはグルシコの設計になる推
力600トンの液体ロケットエンジンの採用をはじめとするいくつかの新機
軸が盛込まれていた。しかし諸般の事情からこのロケットは図面以上には発
展しなかった。
 1968年、打上げ重量4,800トンという超大型ロケットの概念設計
がおこなわれ、1969−70年、火星探査用にУР700よりも大きいロ
ケットの開発が検討されたが、いずれも成果があがらないままに終わった。

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 コロレフが死後知られるようになったと同じく、チェロメイも生前一般市
民にはほとんど知られない存在であった。ロケット設計が国防部門と宇宙部
門にかかわっていたため、冷戦体制下のソ連では国防目的のロケット産業は
厚いベールに覆われていたからである。


[宇宙先端 第13巻第3号(1997年5月号)収録]